令和の虎を観ていたら心が苦しくなってきた理由

こんにちは。最近令和の虎にハマっています。

コンテンツとしてめちゃくちゃ面白い。

そして生涯生きていたら2度と出会うことのない、話すことのない世界線の人たちの話を聞ける。

様々な回を観まくっていたわけですが、観れば観るほどに自己肯定感がダダ下がりしているのが自分でもわかります。笑

その理由を考えてみました。

まず一つ目は、自己投影してしまうこと。

志願者の不安や緊張、自信のなさに共感してしまって、自分の過去や今の状況と重ねてしまう。

二つ目は、厳しい指摘や否定に敏感に反応してしまうこと。

虎たちの言葉が、まるで自分に向けられているように感じる。

三つ目は、「成功者vs凡人」みたいな構図がしんどい。

夢を語る人たちに対して、虎たちが「それじゃ無理」とバサっと切ることが多い。現実の厳しさを突きつけられて、自分が否定されているように感じてしまう。

そんなところです。

さらに深掘りしてみると、自分自身が心の中に

「誰かに認められて生きたい、でも現実は30越えても空っぽだな」

というコンプレックスがあるから。

この空っぽ感の正体は何かというと、自分がこれまでやってきたことを自分自身で評価できないからです。

周りの人にどれだけ

「あなたのこんなところが素敵だ」
「あなたの行動のこんなところがいい」
「これはあなたの長所だ」

と褒められても、

「確かに周りと比べてこの部分ではこの周辺にいる人たちの少し平均を上回っているかもしれない」

、と思うだけでそれが自分の肯定するものとは捉えられていないのが現状です。

自分が”納得していない自分”のままなので、賞賛が虚しく感じるんですよね。

令和の虎を観てしんどいのは、自分が”まだ納得していない自分”を映されているように感じるからなのでは?と思っています。

令和の虎の構造はこうです。

  • 成功者がロジカルに、合理的に、明確な基準でジャッジをする
  • 夢を語る人が緊張しながらも、「何者かになろう」と奮闘する
  • 賞賛と否定が極端で、結果が価値を決める世界

これを観て「自己承認できていない自分」があぶり出されるんですよね。

虎たちの評価は強い確信と実績に裏打ちされている。

しかし自分には「これが私」と言えるものがない。

他人に否定されるより、自分で自分にガッカリしている感覚です。

「冷たさ」が辛いのではなく「自分の限界まで自分が行けていない」ことが照らし出され、焦りがあるから辛い、

・・・

うん、

ここまで書いて素直に何者でもない凡人が「何者かになろうともがいてるな」と滑稽に見えます。努力せずに。

苦しまずに。(苦しむのが何かを達成するのに必須だとは思ってませんが)

この考え自体がそもそも、烏滸がましい。

限界までいけてない?行けてない時点でそれがあなたの限界なんじゃない?

そんな言葉を自分にかけている。

コンプレックスがえぐられるけど、変わりたい気持ちがあるから、変われない自分に落ち込み、そしてなんの努力もしていない甘ちゃんだということです。要は。

そんな弱い自分を普段は隠して生きてるので、誰も周りにいない。笑

深く付き合ったらバレちゃうから、バレるのが怖くて隠れる、そんな臆病者の社会不適合者なんですよね

誰にも責められないから、ここにこうやって書いています。
責められるのならこの事実を私はあえて書き出すことはしませんが

令和の虎を観て、ハッキリとそんな自分が見えた。

そんな感じ。

うん、

終わりにしよう

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